私の人生を変えた「ニ外:ロシア語」問題/3年生にはならず、上野発夜行列車で旅に出る/糸賀さんは俺たちと同じじゃ「意味がないんだ」

―先生は、東大の学部生時代に文転(理科1類→教育学部)されたのですよね。当時、珍しかったのではないですか。

と、思うでしょ。でも、昭和40年代後半の東大では、いくらでもあったことなんだ。私は高校の時から、文科系というか、哲学が本当は面白そうだと思っていたのに、たんに数学ができるというだけで理科系に入ってしまった。なので、もともと理科系には違和感をもっていたんだ。浪人したら文転しようと思っていたぐらいだしね。それに、私が東大に入った昭和47年の頃って、全国各地で公害がものすごく社会問題化した時期だった。イタイイタイ病、水俣病とかね。技術だとか、工業だとかの弊害が盛んにいわれた時期だった。それが学生運動のひとつの問題にもなっていたのだけれど、そんなこともあって、理科系に対する自分のなかでの興味が冷めてきていた。

でも、文転の一番のきっかけは、やっぱり「二外:ロシア語問題」だったと思う。私は「二外」(第二外国語)でロシア語を選んでしまっていた。東大は理科系でもロシア語を選べたんだ。なぜロシア語を選んだかというと、それは単純な理由だった。東大は受験をする時点で、第二外国語を選ぶことになっていた。合格してから第二外国語を選ぶのではなかったんだ。あの時は、理科系の第二外国語といえば、ドイツ語と相場が決まっていた。いまでも覚えているけれど、はじめは私も、受験願書のドイツ語欄に確かに一度マルをつけたんだ。ところが、願書をよく見ると、ドイツ語は「未習クラス」と「既習クラス」とに分かれていた。一方、ロシア語には「既習クラス」がなかった。それで、ドイツ語を選ぶと選択者のなかにはもう既に習ったという奴がいるらしい、だったらみんな知らないロシア語の方がいいんじゃないか、と思い直してしまった。まだ大学に入る前の話で、大学に受かることのほうが先決だから、語学選択なんて何でもいいとも思っていたし、ひょっとして入試の時に点数が同じだったら、ロシア語を選んでいるほうが合格するんじゃないか、と本当に思って(そんなことはちっともなかった)、砂消しゴムでマルをしたドイツ語を消して、ロシア語にマルをし直した。これが私の人生を変えたんだ。

というのはね、ロシア語のクラスに出てみてはじめて分かったんだけれど、ロシア語を選んでいる連中って「実はドイツ語とフランス語は『もう一通りやった』からロシア語を選んだ」という奴らだったの。だから開成高校出身だとか、灘高校出身の優秀学生がそのクラスにはやたらいるわけよ。で、それがまたものすごく数学ができるんだ。私が小中高で数学ができるといっていたレベルとは全然違う。本当に数学者になるような人たちの数学の出来方って全然違うんだ。それで私は完全に挫折した。後で分かったのだけれど、ロシア語クラスは、東大の理科1類クラスのなかでもトップクラスの奴らがやっぱり集まっていた。理科1類からたったひとり医学部に行けるのだけれど、その1人もロシア語クラスの奴だった。そいつは国立大附属高出身の奴で、私ら下町の出来るというレベルとは全然違うんだよ。

たとえば、灘高のトップの奴は、学園紛争が終息して数学の授業が再開したときに、黒板に数式が一杯展開されちゃってなんだか分からないな、と私が思っている脇で、「先生、そこが違います!」なんていうんだよね。そうすると先生は「そうかそうか」、とかいって訂正する。東大の数学の先生の間違いを指摘して変えてしまうんだ。私には何が訂正されたのかすら分からない。そういう奴は途中で数学の授業に出なくなる。「あの授業みんな分かっているから」と。で、試験のときだけ突然出てくるわけね。そうすると、そいつが江川という奴なんだけれど、50音順で席がたまたま隣りだったから、「糸賀ちょっとノートを見せてくれ」といって、私が訳も分からず板書したノートを眺めて、ふむふむ、こんなことをやっていたのか、分かった、といって試験を受ける。それで当然のようにAをもらう。まぁさすがにそいつは数学科に行ったよね。いつかフィールズ賞を取るといっていたけれど。どうしたかな。

とにかく、そういう奴がやたらといたんだ。こういう奴が出来る奴なんだということが分かってきて、なおのこと、理科系でやっていく自信をなくした。ところが、後で聞いたら、ドイツ語やフランス語のクラスは、私並みのがいっぱいいたらしくて、もし他のクラスに行っていたら、普通に理学部や工学部に行って、普通にエンジニアなんかをやっていたかもしれない。それがなまじロシア語を選んだために、理科系で行くことを断念してしまった。


―でもそれで、なぜ教育学部で図書館情報学をやることになったのですか。

すこし長い話になる。その頃アルバイトを紹介してくれる人がいて、実は私は、子供の頃から中一ぐらいまで、プロテスタントの教会の日曜学校に行っていたんだ。敬虔なクリスチャンというのとは全然違うし、たまたま近所にあって、子供たちを集めてお菓子を配ってたから、それが欲しくて行っていただけなんだけれどね(笑)。それと寸劇とかを色々とやらされる。そういうのは得意だったからね。で、その教会の牧師さんから、息子の勉強の面倒を見て欲しいと、家庭教師のアルバイトを依頼された。その頃、下町の我が家周辺には、東大や早稲田慶應に行っている大学生なんて私以外いないんだから。で、引き受けて始めたところ、志望校のひとつに見事合格させることができた。喜んだ牧師さんが、次にと紹介してくれたのが、都内でパチンコ屋を方々に経営している、いわゆる華僑のおうちの息子さん。息子には何とか学歴だけは身につけさせたいという親父さんの願いを受けることになった。給料はやたらと良かったんだ。しかもみんな中国人だから、食事が美味かった(笑)。本場の中華料理でね。賄いのおばさんがいて、それが食べたくて一生懸命勉強を教えた。5人兄弟で、一番上から順番に全員教えた。週1回3時間で月4万円。今でいうと10万円以上になるかもしれない。この収入と奨学金、それに家が貧しいから「授業料免除」の扱い、それで自分の大学生活を賄えた。だから親からはそれ以降、一切貰わなくなったよ。

でもあまりにも労せずお金が稼げるようになって、かえって、一度社会に出て、汗水たらして仕事をして金を稼ぐということをしなくちゃいけない、と思うようになった。それで、将来何を専門にするかを決める前に、いっぺん大学に休学届を出してアルバイトしようと決めた。

大学に2年いて、3年生にならずにもういっぺん2年をやった。もう進級単位はすべて取っていたから、休学届を出して、アルバイトをした。家庭教師以外にも、葛飾の方のボウリング場でも働いたりしてね。で、5人兄弟の家庭教師をしていた家には、そのことを申し出てみた。他の仕事もしてみたいし、ずっと親元にいて、時給の高い家庭教師の仕事だけでは、ものの見方が狭くなってしまうから、色々なことを体験してみたくて、ちょっと国内を旅行したい、だから家庭教師も暫くお休みしたいんだ、と。そうしたら、子供たちが糸賀先生を良く慕っている、確かに広い家だったから、勉強の合間に野球をしたりもして一緒に遊んだからね。だから旅行の間は、通信教育でいいから続けて欲しい、といわれてしまった。で、実際にやったんだよね。旅先からの通信添削を。それで月々変わらない金額を口座に振り込んでくれる。申し訳ないなと思ったよ。だから東京に帰ったときには、一生懸命通って面倒をみたけれど。

で、それなりの資金を得て、大学3年目の5月連休明けに、上野発の夜行列車で私は北海道に向かった。行った先々でアルバイトをしながら、旅行を続けた。今じゃ考えられないね。一番長く滞在したのは、日高の牧場。ここでの生活が大学教員になるひとつの契機にもなったんだ。牧場でバイトしていると、朝5時に起きて、馬を放牧する。ぼっこ返し(馬がいる小屋の干草を裏返す)をして乾燥させる。そういうようなことをしながらお金を貰っていた。同僚は、ほとんどが中卒だとか、高校をドロップアウトしてきているような奴らばかりで、当時東大の現役の学生なんていなかった。

で、そういうことをしていたら、同じバイト仲間である日、夜飲みながら話をしているときに、ある奴が、糸賀さんは俺たちと一緒に寝起きして同じ仕事をして、こうやって同じ酒を飲んで、同じ給料を貰っているんじゃ「意味がないんだ」と言い出した。糸賀さんは糸賀さんの持っている能力を活かして、もっと社会のためになるような仕事をして、俺たちのためになるようなことをしてくれなければしょうがないんだ、と。

そういわれたときに、はじめて目が覚めた気がした。自分が曲がりなりにも、そういわれるだけの力をもっているんだったら、こういう人たちのために仕事をしてあげたほうが、はるかに多くの人の役に立つのだ、と。私がここで牧場の仕事をしていても、喜ぶのは牧場の親父さんだけで、他の人は喜ばない。でも、自分にもし能力があって、もっと社会のためにできるような仕事をしたら、そういうようなところで働いている人も、牧場主もみんなが喜んでくれる、と。そういう仕事をやったほうが、能力のある人間として相応しいんじゃないか。それは変なエリート意識ではなくって、純粋に彼はそういうふうに私にいってくれたんだ。で、そういわれて、しばらくしてから東京に戻って、じゃあ彼らのために仕事をしようと考えたときに、できる仕事というのは教育か医学だろうなと考えた。でも医学部で医者になるという道は、もう閉ざされていたから、行き着いたところが教育だった。教育のなかでも、学校教育で学校の先生になるというよりも、いわゆる社会教育、働いている人たちや高校を中退した人たち、年をとってから夜間中学に入り直した人たちのための仕事として、社会教育の指導者をやろうと考えた。それで理科1類から教育学部にいくことに決めたんだ。

北海道で働いていたときの経験で、いっぺん失敗してしまった人たちでも、何か目標をもって生きられるような、人生の目標を見つけられるような環境を整えてあげることに貢献できる仕事を自分はやろう、ということで社会教育を選んだ。社会教育といっても、当時、公民館の仕事と、図書館の仕事と、大きく分けて2つあった。私としては、これからの社会のなかで伸びるのは図書館の仕事だろうと思った。それに、その頃から図書館にコンピュータを入れて仕事をするということが一般化しつつあったから、私の理科系の知識を多少なりとも活かせそうだとも思った。そのあと、大学の専門課程に進んでから、社会教育のなかでも図書館学にだんだんと関心が傾斜していった。それで大学院に入るときには、図書館情報学という専攻をえらぶことになった。

文科系であっても理科系の知識も活かせて、恵まれた環境の下で生きてないけれど、自分たちも何か学びたいと思っている人たちをサポートできる仕事に就きたいと思ったときに、社会教育のなかでも図書館情報学があるということをそのときはじめて知った。そこからです。この世界に入ったのは。

 

 

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